セミナーレポート

形而上学は閉じられない——エスノメソドロジーで拓く精神医学の哲学——(2022年8月28日)

■日時:2022年8月28日 14:00(JST)より

■登壇者
レクチャラー:後藤真理子(リサーチマップ
レクチャラー:河村裕樹(
リサーチマップ
司会:三浦隼暉(
リサーチマップ

■レポート執筆者:綿引周

 哲学オンラインセミナー主催の入門レクチャー「形而上学は閉じられない——エスノメソドロジーで拓く精神医学の哲学——」が2022年8月28日(日)14:00から17:30(JST)まで、オンラインで開催された。

 講師は、精神医学の哲学を専門とする後藤真理子氏と、精神科医療機関でのフィールドワークで得られたデータを、エスノメソドロジーの方法論的態度において分析し、その成果をまとめた著作『心の臨床実践——精神医療の社会学』(ナカニシヤ出版)を先日上梓された河村裕樹氏だった。

 精神医療の社会学・精神医学の哲学には様々なアプローチがあるが、今回のレクチャーは、社会構築主義の観点から議論が進められた。そのため、はじめに後藤氏から、社会構築主義に関する歴史的な背景説明があり、いわゆる第一次反精神医学から第二次反精神医学に至る過程と、社会構築主義的言説と精神医学の関係についての説明がなされた。河村氏からの補足説明のあとで、両氏のレクチャーに進み、最後に、フロアを交えて全体討論を行った。

 後藤氏のレクチャーは、精神疾患に関する社会構築主義の概説に関するものだった。後藤氏によれば、これまでの歴史にもかかわらず精神疾患を社会構築主義的に考察することが重要であるのは、現状用いられている精神疾患の分類(『精神疾患の診断・分類マニュアル』、DSM-5)の妥当性は現代でも係争中の論点であり、実際に精神疾患の分類だけでなく、その症状や疾患それ自体が、社会・文化的影響を受けることが確認されているからである。

 社会構築主義は、A. Horwitz(2012)によれば、大まかに3種類に分類することができる。すなわち、(1)純粋な構築主義(Pure Constructionism)、(2)相互作用的な社会構築(Interactive Social Construction)、(3)有害な機能不全(Harmful Dysfunction)である。以下順にPC、ISC、HDと略記する。貨幣が貨幣であるのは、制度に参与する人びとがそれを貨幣とみなすからであるのと同様に、PCによれば、ある特定の状態が精神疾患であるのは、それが精神医学という文脈のなかでそうみなされるからである。他方、ISCによれば、一部の精神疾患はイアン・ハッキングのいうジェンダー、人種と共に「人間に関する種(human kind)」である。これは「ループ効果(looping effect)」を伴う点で自然種からは区別される。ループ効果とは、その概念が分類に用いられると、分類された人間の行動に変化をもたらし、そのことで今度は当の分類自体が強化されたり、書き直しが生じたりするなど、概念と概念が適用された対象のあいだに生じる相互作用のことである。例えば「肥満」と分類される人々は、その分類に負のスティグマが伴うことを知り、体重を減らそうとしたり(この場合、肥満という概念とそれに伴うスティグマの結びつきは強化される)、「誇りある肥満者」運動に参加したりする(肥満概念がもつマイナス価値を否定し、分類とその記述の変更を要求する)。最後にHDは、人間が進化の過程で獲得した自然な機能が正常に動作しない場合に、その不能が生じた状態が文化的価値基準に基づいた有害さの原因となるときに、その状態が疾患だとする。

 3つの社会構築主義のそれぞれには批判が存在する。PCには、不倫や犯罪などの単なる社会規範からの逸脱と精神疾患の区別がつかず、また、生物学的要素を過剰に無視するという批判がある。ISCに関しては、クーパーから、ループ効果は自然種と人間に関する種を区別するものではないという批判があり、当日はこれに続くハッキングとクーパーの詳しいやり取りも紹介された。HDには、自然な心理的機能と社会的な心理的機能の間に明確な境界線が引けないこと、ある状態が関連する環境への理解可能な反応なのか、進化的にデザインされた一定のメカニズムの問題なのかを決定するのが困難であること、そしてある状態が環境への適切な反応であるからといって、その状態が疾患でないとは限らないという批判がある。

 後藤氏によると、以上、3種類の社会構築主義にはいずれも問題点が残ることから、それらをそのままの形で受けいれることはできず、現代精神医学および精神医学の哲学では、説明的多元主義を認めるアプローチが提案されている。説明的多元主義は、ひとつの現象を説明するために複数の異なるアプローチを認めることで、異なる方法で得られた異なる水準の知見を補完的に理解しようとするものである。説明的多元主義には、分類の妥当性よりも有用性を重視すべきだと主張するP. ザッカーからの影響があるため、発表の最後には、ザッカーが提唱する「実践種モデル」も紹介された。このモデルでは、精神疾患概念は、様々な目的(科学的優先事項や経済的優先事項、スティグマを減らすなどの社会・政治的優先事項等々)間のバランスをとりながら、それぞれの目的に応じた情報を得るための有用な道具とみなされる。

 このザッカーの実践種モデルには後藤氏から様々な疑問が提示されたが、特に、このモデルが実践において果たして有用なのか、あるいは応用可能なのかという論点は、次の河村報告の冒頭で提示された論点とも関係する。

 河村報告では最初に、後藤報告をどう実践に開くのかという問題意識が共有されるとともに、次の論点が提示された。すなわち、ザッカーは実践における有用な精神疾患のカテゴリーを定義することを目指しているが、しかし私たちは日々の活動のなかで、本当に厳密な定義を用いているのだろうかという論点である。理論家の目指す、厳密に定義された概念と、人々が日々の中で用いている概念とのあいだには距離があるというこの論点は、上記のザッカーへの後藤氏の疑問とも関係するように思われ、また社会学における構築主義からエスノメソドロジーが誕生した経緯にもかかわっている。

 河村報告では、精神疾患の社会学の中で、構築主義がラベリング論の洗練化として登場してくる経緯が紹介されたうえで、社会学における構築主義に共通する問題点として「修正主義」社会学(西阪 1997)あるいは「分析的リアリズム」(Parsons 1937/1968)が指摘された。修正主義社会学は、現実の構造は私たちには直接見えず、私たちが日常的な概念をとおして出会う現実ははっきりとした姿を見せず、科学的な概念システムをとおしてはじめて明確なかたちで捉えられ、科学的概念も日常的概念も現実の一部の何らかの代表であるという前提をおく(デュルケム『自殺論』がその代表例)。しかし河村氏によれば、私たちが日ごろ用いている日常的概念は、現実を代表するためだけのものでもなければ、厳密なわけでもない。人々はたとえ曖昧であれ概念を使用し、概念を使用するとは、単に世界を記述することであるわけではなく、他者に対して、あるいは他者と共に行為や活動(=相互行為)を組織することである。たとえあいまいでもそうした日常的概念によって私たちの現実の社会が組織されている以上は、重要なのは、その概念を「厳密な」他の概念にとりかえてしまうことではなく、その概念の用法・機能そのものを研究の対象とすることではないだろうか。

 この、修正主義社会学への反省から生まれてきたエスノメソドロジーは、人々が日々のなかで概念を用いながら実践を組織していく仕方を明らかにするための研究上の方法論(河村氏の表現をそのまま引用すると、エスノメソドロジー研究とは「私たちが社会生活を営む上で用いている方法論を明らかにしていく研究」)であり、また人々が日々の実践を組織するために用いている方法論の名前でもある。

 エスノメソドロジーについて当日は理解/解釈という対比からも説明が試みられた。親と子供の間の会話を例として河村氏が指摘したように、会話の参加者たちは互いの動機や意図を解釈する以前に、相手が何をしているのか(質問か、予告か)、あるいは何をし損ねているのか(誤解や沈黙など)を理解している(質疑応答のあとにあった雑談タイムでの河村氏の話によれば、理解/解釈の対比については西阪仰『相互行為分析という視点』を参照とのこと)。この理解は、科学者が説明を与える以前に既に実践の参加者にとっての課題であり続け、かつそのつど解決され続けている課題である。エスノメソドロジーは、会話をはじめとする私たちの相互行為を達成するために普段用いている様々な道具立てを明らかにする。

 修正主義社会学的な科学的説明優位の見方から、日々の人びとの志向(orientation)に定位したエスノメソドロジー的研究への流れは精神医学の社会学にもみられた動きである。2000年前後まで、医療場面を対象とした調査研究は、医師が患者とのやりとりをコントロールし、患者の意志を軽視したり抑圧したりしていると論じて批判した。またそのような傾向を、医療のもつイデオロギーの産物とみなしていた。この科学的な説明モデル優位の見方への反動として、病の語りの研究も誕生したが、こうした批判的研究は、実際の診療を的確に調査・分析できていないのではないかという指摘も現れ始めていた。この背景のもとで、実際の診療場面を参与者たちの志向に即して記述していく研究=会話分析が立ち現れた(なお、河村氏によると、会話分析はエスノメソドロジーから派生したものだが、順番交替や隣接ペアなど、会話の中に共通して見出される道具立てをエスノメソドロジーよりも強調する)。

 精神医療の現場での既存の会話分析は例えば次のようなことを明らかにしてきた。医師は日常的に使われる表現を用いて、患者にわかりやすく説明する努力(「受け手に合わせたデザイン」)をしている。医学的権威も、単に「医師である」「看護師である」というだけで成立するものではなく、実際のやりとりのなかで診断や症状を「説明可能なもの」として患者に提示することで支えられている。また、実際の会話断片を記したトランスクリプトに基づいて河村氏が示したように、医師が患者の懸念を却下するにあたり、医者は患者自身の概念を説得の資源として用いたり、冗長とも取れる説明を組み合わせて自らの見解を示し、処方内容についての合意を形成したりしている。以上はいずれも会話分析以前の批判的研究からは見えてこなかった、精神医療現場の側面である。

 河村報告で例示されたエスノメソドロジー研究の方法論的態度は、哲学探究の新たな可能性を切り開くかもしれない。例えば、精神疾患概念もそれとして理解可能な形で日常生活の中で人々に理解されている以上、ハッキングの「ループ効果」は、歴史的な水準だけではなく、日常的な水準でも生じているだろう。また、後藤氏が指摘したザッカーの実践種モデルは「実践において果たして有用なのか」という疑問点や、ザッカーの目指す厳密に定義された診断概念が本当に人々が日々の活動の中で用いているものなのかという河村報告の冒頭に提示された論点にも、エスノメソドロジーの観点からは新たな角度から光を当てられるかもしれない。

 本イベントはそのタイトルにある通り(また後藤氏・河村氏が全体討論の中で説明していた通り)精神医学の哲学・形而上学の議論を、エスノメソドロジーを通路として、精神医学の実践の現場に開くことがその目的にあった。エスノメソドロジーについての哲学者の側の理解が、この一回のレクチャーで達成されるはずはないのだから、エスノメソドロジーを通じて精神医学の哲学(あるいはそれ以外の哲学)を実践の現場に開こうとする試みも、本イベントに閉じられたものではないだろう。

(2022年9月11日作成)